2011年10月11日火曜日
東北ボランティアを通じて
一つ目の参加理由である被災地に行ってみたい。これは、僕が参加し経験した別のイベントで「日本の次世代リーダー養成塾」と言う様々な都道府県から、「我こそはリーダー」だという高校生が集まるキャンプに応募し厳しい厳選ののち参加し2週間行ってきた。そこで、キャンプ中にすごい講師たちを招いて講義をしてもらったり、今後の日本のありかた、復興など政治的なことまでハイスクール国会と言う名称でキャンプ中に友人と討論しあうのだ。その時の話なのであるが、どうも東日本に住んでいる友人と西日本に住んでいる友人との"温度差"を感じてしまったのだ。やる気がどうこう言う問題ではない。どうしても生まれてしまう"温度差"なのだ。そして何より、被災地の友人達の話は壮絶で耳を疑うような事さえあった。だから、僕はこのようなどうしても出来てしまう"温度差"をそのままにしておいて良いのか、とそのキャンプからずっと思っており、今回参加した。正直、自分も西日本に住んでいるので地震はあまり経験したことがないし深刻にはとらえていたが被災地の人と自分の認識のギャップに愕然と思って、その"温度差"を一人でも多くの人から無くすために自分が一度被災地に行き、経験し、吸収してより多くの人に純粋に伝えたかったのだ。
もう一つの理由であるボランティア嫌いであるが、初めからそうだったのではない。2年ほど前から友達たちが急にボランティアを大学の為に盛んに行おうとした事がきっかけだ。関係ないので長くは書かないが、見返りを求める為に参加するのも一つの方法論かもしれないが僕には理解できなかったから嫌いになったのだ。
しかし、そんな僕だがボランティアを嫌うばかりで、参加した事がなかったのだ。それでは口だけであり、食わず嫌いと何ら変わりないと思っていた。嫌いならそれなりの意見がなければ根拠がともなわないし、本当に嫌いなのかどうか身を持って体験したかったのだ。だから今回参加した。
今回参加して感じた事は良い言葉ではないが"良い経験"だった。心から行って良かったと思えた。被災地に到着したときは唖然としてしまい言葉を失ったのをよく覚えている。言葉どおり壊滅状態だったからだ。テレビで放送している現場を見るのとはまた違う感覚だった。今ではあまり被災地の事をテレビで放送されないが故に、被災地以外の人々の頭の中から東日本大震災の出来事はだんだん薄れていっているに違いないのだが、実際行ってみるとまだ全然人の手が届いておらず3月11日から時間が止まっている場所だってあった。メディアの力は恐ろしいと思った。その一方メディアの力は進んでも3月11日の東日本大地震が起こった直後から津波がくるまでに非難しない住民もいたようだ。というのも、あのあたりの地域に津波や地震の数は多く事態をそれほど深刻にとらえていなかったようだ。人間は自然をおごってはいけないなと思った。人々は町を作って生活するまでにとても長い時間と歴史を必要とするが、自然はそれを一瞬にしてのみ込んだ。そう考えるととても恐ろしことだ。今回学んだことはとても多い。この経験から僕達ができることなんてとても少ないしかつ無力には近いが、この経験や学ぶべきことは多かったと思う。それを多くの人に伝えたいなと思った。それと、避難訓練の改善をするべきではなかなと思った。これは別の学校にも言えることであるが、今やっている避難訓練は正直甘いと思うしはたして意味をなしているのかなと疑問に思うようになった。
決して自然をおごらないようにしないといけないと思うし、今回の震災の経験はしっかり語り継ぐべきであると思った。 12年M
感想
やっぱり、最後の日に行った釜石市の影響がすごくて、人々はなんの罪もないのに、可哀想だと思いました。だけど、被害にあった人達は、ものすごく前向きで強いなと思って、ちょっとの事でくよくよしてたらあかんなーと思いました。 10年K
災害ボランティアに参加して
リピーターとして1カ月ぶりの被災地は、着実に復興しているように感じました。瓦礫の撤去はもちろん、仮設住宅の建設なども岩手県内では終了していました。店舗もプレハブなどで再開され、その地区恒例のお祭りも開催されるなど、被災者の方々の復興に向ける努力と大きな希望が見えたように思いました。
災害ボランティアに参加したことで、たくさんの貴重な体験をすることができました。瓦礫の分別の作業では、写真アルバムなど思い出の詰まったものや、前回行った時の作業ではご遺体も見つかりました。さらに、家が流されて床や土台だけが残った家屋で、土台の解体作業など普段はできないことをさせていただくことができました。また、現地の方々から差し入れを頂いたり、実際にお話しを聞かせていただいたり、現地に行ったからこそできる体験をさせていただきました。
改めて、引き続き災害ボランティアを風化せずに参加していくこと、日本全体が団結することが不可欠だと感じました。震災から半年が経ち、被災地は少しずつ復興していると感じましたが、今までのように生活できる環境にまで戻るには、まだまだ月日がかかると感じました。たまたま連休では災害ボランティアに参加されている方が多かったものの、日本全体としては報道で取り上げられる機会も減りつつあり、一人ひとりの意識もだんだん薄れていると日々感じます。
災害ボランティアに参加したことによって、被災地の現状だけではなく、集団生活の大変さ、重要性と同時に自己管理力も学ぶことができました。特に、遠野まごころネットに参加したことで、100名以上の方と同じ場所で生活する体験をすることができました。被災地での作業もチームワークが不可欠で、重い瓦礫を運ぶ時、特に倒れた電柱を移動させる時などに、みんなで力を合わせることの重要性を感じました。集団生活をする上で、一人ひとりの意識、自己管理力が大切であることもわかりました。自分で物事を判断し、時には周りの人の意見も取り入れ、身のまわりの物事に責任を持って生活する大変さを感じました。
今回はハードなスケジュールでしたが、再び被災地で活動することができて良かったと思います。しかし、大阪に戻ってきてから改めて3日間では短いと感じました。SOISの一員として再び、被災地で活動したいと思います。今回のプログラムを計画してくださった先生方、サポートしてくださった方々、ありがとうございました。 11年Y
感想
私は今回のボランティアで本当にたくさんのパワーを貰いました。被災地の方々、元気に走り回る子供たち、互いに協力しあったボランティアの方々、道に咲くコスモス…、すごく厳しい状況の中でも懸命に未来に向かって生きる姿は活動中のエネルギーにもなりました。
これからも今自分ができること、しなければいけないことをしっかりと考え、少しずつでも被災された方々のお力になれるよう、いろいろな活動を続けていこうと思います。
最後になりますが、今回のボランティアで沢山のサポートをしてくださった先生方、保護者の方々、遠野まごころセンターの方々、また被災地の方々、ありがとうございました。 11年T
東北災害ボランティア 参加レポート
二日目は大槌町で作業に参加させていただきました。海に近く、津波の被害が大きく見える所で、前日の陸前高田に比べると漁師さんたちの漁具や電柱等、まだまだ津波の爪痕がもろに見えていたことが、少なからずショックに感じました。川の斜面の瓦礫撤去は他のボランティアの方々と力の面でも協力し合い、重い瓦礫や荷物を動かしました。カイロの入ったズボンや靴下、子供のおもちゃの様な、持っていた人の存在が感じられるような物が水の中から出てくると、とても重さを感じました。そこで確かに人が住んでいて、そこまで津波が達したんだな、と何度も考えました。午後からは草運びや畑の整備の作業をし、そこでも様々な私物が草の隙間から発見されました。丁寧に年賀状や手紙を保管してある文箱や文庫本などから、その人の性格や人物像が見えるのだな、と、物だけを見てもいろいろと思いました。一番体力的にも辛い日だったけれど、とてもすっきりと達成感があって同時に作業自体を不謹慎ながらも楽しめた一日でした。
最終日である三日目は、釜石の箱崎町へ行かせていただきました。地元の方と行政のこすれや、歴代のボランティアさんたちの苦労のお話をたくさん聞かせていただき、写真を一枚撮ることすら問題になってしまうようなデリケートな土地だということで、活動前は少し緊張していました。けれど、作業現場となったお宅のおじいちゃんのもったいない程の優しさや、大切な船の進水式に呼んでくださった地元の方々、信頼関係がいかに大切なのか、大きさに気づきました。進水式やひっつみ大会に呼んでいただけたのも今までのちいさな積み重ねがあってこそ。私たちの様な新参ボランティアまでが声をかけていただいて、なんとなく申し訳ないと思いつつも、温かいひっつみ汁はとてもおいしかったです。地元の方々の気持ちや、進水式の時に見た笑顔がさらにおいしい調味料になっていたなぁと、しみじみ感じました。いろんな人と笑いながら食べるごはんは周りがどんな状況であれ、とびきりおいしいものですね。みんなで入るお風呂も、一つの鍋から分け合うごはんも、いつもの生活と人のぬくもりというのは本当にありがたい、尊いものだと思いました。自然の力は人間が苦労して作った分厚い堤防をあんなに簡単に切り取ってしまうほどに強くて恐ろしい!自分たちの非力さだけが目立つようにも思いましたが、やっぱり後始末をできるのは人間だけだと思いました。打たれ強いしなやかさも、協力して復興を目指す姿勢も、自分の故郷を愛しているからこそではないかな、と。時間はかかっても、必ず東北は復興できるだろうな、と感じました。被災地の方々の強さと、ボランティアさんの努力、そういうものを肌で感じる機会を作っていただけて、とても感謝しています。テレビで見るよりも自分で感じ、自分の手で作業して、たくさんたくさん経験をさせていただきました。もう一度行きたいかと言われれば、ぜひもう一度!企画してくれた先生方はもちろん、センターのみなさん、被災地のみなさん、いろんな面で支えてくれたみなさんに本当に感謝しています。みなさんお疲れ様でした。ありがとうございました。 11年 S
感想
今回、私が経験したボランティア作業の中に、個人宅の土地に水路を作るという作業なのですが、そこに住んでいたおじいさんが重いシャベルを持ち必死にがれきを除去しながら私たちと一緒に土を掘り起こしていました。聞くところによると、ボランティアが来るまでは、おじいさんががれきの撤去や、家の物の収拾をしていたそうです。私はそのおじいさんを見て、自分が少しでも助けになればと思い一生懸命作業を行うことができました。被災者の方々は現在、避難所を出て、仮設住宅でくらしています。物資の供給もなく非常に住みにくい生活だと聞きました。私たちがしていくべきことは被災者の笑顔を少しずつ取り戻していくことなのだと強く強く感じました。人により、助ける方法というのは違っています。直接行って作業をする、物資の支援をする、募金をする、などまだまだたくさんあります。私は今回直接現地に行って作業のお手伝いをさせていただくことができました。これは非常に光栄なことです。しかし一番大切で、しかも何とかしたいと思っている誰でもできることが一つあることを今回の経験で心から感じました。それは3.11を忘れないということです。風化してしまえばしまうほど、辛い経験をした人たちの気持ちを汲むことができなくなります。10年後もその先も、後世に伝えていくということが私たちのできる身近で大切なことなのです。
震災ボランティアに参加できて自分自身が成長できましたし、貴重な経験を得ることができました。今回サポートしてくださったすべての人に感謝したいと思います。ありがとうございました。 12年O
東北ボランティアの感想文
私は陸前高田市、釜石市、そして大槌町の3つの現場に行ってボランティアさせていただくことができました。本当にどの場所も3.11から時間が止まったままといった感じでした。特に大槌町は自分の目の前に広がっている光景がテレビで見た光景と何ら変わりがなく衝撃的でした。がれきの山、崩壊した防波堤、枠組みだけの建物、変形したたくさんの車など。あのがれきがなくなるためにはいったいどれだけの歳月がかかるのだろうと気が遠くなりました。
学校の3階の窓に突っ込んだ状態のままの車を見たときは、大阪という大都会に住んでいる私たちは想像することができないような"現実"を突きつけられたような気持ちになりました。
それでも今の東北の現状を見ることができてよかったと思います。そしてもっと助けたいという感情が芽生えました。それはけして同情などではありません。高校生の私にでも助けることができるということがボランティアを通してわかったので継続的に助けの手を差し伸べたいと思ったからです。ボランティアというのは継続的にすることに意味があるのではないかと私は考えます。今回のボランティアではあまり被災者の方とお話する機会はありませんでしたが、釜石市に行かせて頂いたときに私は90歳のおじいちゃんの個人宅のがれき処理を担当していました。そこでそこの家主のおじいちゃんと話すことができました。その時に「若いうちにこの津波を体験してほしかった」と言われた瞬間は何も言葉がでてきませんでした。しかしもっと被災者の方に話を聞きたいなと思いました。
東北に実際行ってみて被災地の現状を見たらわかるように津波の破壊力は並々ではない、ということを改めて感じました。そして何百年に一度しか来ないようなその恐ろしい津波を体験した人がいる、またその津波のせいで亡くなった方々が何万といると考えると気持ちを何と表わしたらいいかもわからなくなりました。「怖い」という感情もありましたが、3.11に起こった大震災をテレビだけでなく、この目でみることができて本当に良かったです。何よりも強く感じたことは"あたりまえ"が続くことがどれほど幸せかということです。
私たちは今綺麗な学校にいけて、帰る居場所もあります。これがどれだけ幸せなのかを感じさせられました。何年、何十年カ後に東北もあたりまえが日常に戻ってくることを祈ります。そしてもし「第二弾震災ボランティア」が実現するならば、ぜひもう一度参加したいと思います。それぐらい今回初めてこのようなボランティアを経験することができて良かったと私は感じています。11年M
東北ボランティアへ行って
そこで実際わたしが被災地にボランティアとして行き、学んだものは本当にたくさんありました。最初、被災地を目の前にしたときは何故かなんの感情もわきませんでした。でも何ヵ月も前からボランティアとして活動している人の話などを聞くと、だんだん今回の地震がどれだけの人を苦しめたのか、いたいほどわかりました。わたしは釜石市の方にボランティアとして行きました。その向かっている途中、だんだんひどくなっていく町の様子に、あじわったことのないどきどき感がありました。
「このトンネルを抜けたら一切写真撮影は禁止」といわれ、トンネルをくぐっている時は、このトンネルを抜けたらどんな様子の町があるのか?と、とても考えただけでものすごい複雑でこわい気持ちが一気にあらわれました。
トンネルを抜けて、そこまで被害がひどくなったり、といのはなかったけれど、写真撮影を禁止する一線がある、と思うと何故か違う町に見えました。
ぐちゃぐちゃになった家や建物を見ると、赤色文字で×や○がかかれた家がほとんどで、その印の意味はというと、×が遺体が発見されてまだ処理できていない、○がその遺体を処理しました、という意味があり、それを聞いたときは、一番今回の被害をリアルに感じました。
そんな印がある建物の中で、ご飯を食べたり、休憩したりした時はなんとも言えない気持ちでした。
そして、わたしは今までニュースとかではよく聞くけど、孤独死、ショック死、の意味があまり理解できませんでした。孤独すぎて死んでしまうなんてありえないと、自分のなかで思っていたからです。ショック死も同じく、ショックすぎて死んでしまう人のいみがわかりませんでした。でも被災地にボランティアとして行って、すごくわたしは孤独を感じ、何もかもにやる気がなくなったり、話すことがめんどくさく、人と関わるのがこわくなり、情緒不安定になったときがありました。そのときは考えることは出来なかったけど、自分の住んでいるところに返ってきて、おちつき改めて思い返したときに、このあのときの気持ちがずっと続いて、孤独死してしまうんだなと知ることができました。
ショック死も、大げさだけど被災地の土があやまって目に入ってしまった時は、もう死ぬんじゃないかなんて勝手に考えすぎて思い込みから、怖くてすごくしんどくなったりしました。そしてショック死の意味も理解することができ、学ぶことができました。
今回初めてボランティアとして参加し、被災地へ行って、よかったなと思いました。それは自分にとって大きな経験になったし、きっとその場所に行かなかったら一生学べなかったことがあったとおもうからです。普段じぶんがどれだけ幸せな生活を暮らしているのか、思いさせられました。
それと同時に被災地へ行って、ボランティア活動は、しんどくなかったけれど、精神的に追い詰められて、すごく苦しかった思いもあります。
でも、被害にあった人はもっと苦しい思いをしたのか、とかを考えると、自分の弱さにも気付きました。
実際、行ってみないとわからないこと、感じられないことが沢山あると思います。だから、ボランティア活動をしてみたいなと思っている人は、私は参加してほしいなと思います。いろいろ苦しい思いをするかもしれないけど、それ以上に得られるものは大きいと思います。 11年S
感想
一番印象に残ったのが、岩手県の釜石市でした。数10キロ離れた遠野市は高台に位置するため、津波の被害が比較的に少なく、復興も順調でしたが、バスで坂道を下りて行けば行くほど、被害はひどくなりました。釜石市は港があるためとても大きな被害を受けました。しかし、都心部の復興が優先されたため釜石市は後回しにされてしまいました。そんな釜石市で最も印象に残ったのが小学校の校舎にバツ印がつけられていたことでした。バツ印とは自衛隊が救助のときに人が亡くなっているなら建物の外にバツ印をつけ遺体の回収を後回しにすることで効率良く生存者を救う方法です。
小学校にそのマークが付けられているということはつまりそこで小学生が命を落としたということを意味していました。自分より若い小学生が命を落としたと考えると津波に対する恐怖心を覚えました。また、黙祷をした時も改めてここが被災地であり足元で多くの人が尊い命を落としたことを確認しました。
このようなことから最初は釜石に暗いイメージを抱きましたが、実際は作業の途中に差し入れを持ってきてくれたり郷土料理のひっつみをごちそうしてくれるなどとても明るくて優しい人々でした。ボランティアを優しく受け入れてくれるその姿はとてもありがたかったです。今回東北ボランティアで被災地の現状とそこに住む人々の暖かさに触れることができて良かったです。貴重な体験ができ て良かったです。これからもぜひ多くの人に東北に行ってボランティア活動をして欲しいと思います。 10年 T
ボランティア感想
感想
現地に着いて、半年前と変わらない町の中で被災地の人々に会いました。
通りかかった車の中で涙を流していた人や、自分の子どもを亡くした人にも会いました。
半年たった今でも仮設住宅で大変な暮らしをしている被災者の方々と接する機会がありました。
辛い生活をしているのに笑顔で文句ひとつも言わず暖かく接してくれた被災者の方々と接し、自分の小ささを感じ、自分が励ます立場のはずなのに私は被災者の方々に励まされました。 10年T
東北
感想
いつ完全に復興できるかは分からないけど、1日でも早い災害からの復興の為には1人でも多くの協力者が必要だということも分かりました。なので今回の活動だけで満足することなく、自分にできることは今後もしていきたいと思います。 12年Y
東北ボランティアに行って
東北でボランティア活動をして
実際テレビで目にするような光景を目にして最初は言葉がでませんでした。
破壊された防波堤、崩れた家屋や、建物、津波によって流された瓦礫など、テレビの画面からでは伝わってこなかったものを今回被災地にいって活動をする度に感じ、地震と津波の恐ろしさを心の底からしみじみと痛感しました。
ですが、今回のボランティアに参加してすごくいい面もありました。自分たちと同じ気持ちでボランティア活動をしにきている人と意見を交換しあったり、話をしたりして関わりを持つことができたし、なにより自分の意識が大きく変わりました。例えば、今まではあまり節電や節水を積極的に行おうとする姿勢があまりありませんでしたが、今回のボランティア活動をおきに、家や学校など普段の生活の中で自分が節水や節電をしようと試みたら少しでも変わるんじゃないか、被災地、被災者の方の役に立つのではないかと思うようになりました。そして実際に私は寝る時に普段はつけている豆電球を消して寝たり、手や髪を洗う際に必要な時以外は水を止めたりするようにしています。小さなことでもちょっとずつ積み重ねていけば最終的には大きな力になるのではないかなと私は思っています。これは今回のボランティア活動をしながらもにもつくづくと感じました。今回私たちがSIS・OIS生の活動が少しでも現地の方々に喜んでもらえて、復興の原動力になればいいなと思います。
なお、私はボランティア活動の第二段、第三段にも参加できたらいいなと考えています。今回は本当にいい経験ができてよかったです。11年M
感想
私が2日目と3日目に訪れた釜石市の状況は、私がテレビで見たときよりは道などができてきれいになってはいたものの、まだまだ瓦礫の山積み、あちこちが雑草だらけで悲惨なものでした。それなのに1日に行えるボランティアはほんの少しだけ。「これではもとの釜石市に戻すのに一体何年かかってしまうのだろう」と不安に思ったこともありました。しかし、そんな中で現地の人の暖かい差し入れや笑顔見ると、私たちの小さなボランティアでも彼らの心をちゃんとケアすることができているのだなと実感しました。
現在、岩手ではたくさんのところからボランティアの人が集まっています。しかし、ボランティアはまだまだ足りない状況にあるため復興にも相当な時間がかかります。つまり、被災地のみなさんを助けるためには私たちの力が必要なのです。そのためには私たちボランティア経験者が1人でも多くの人に今の被災地の状況伝え、知ってもらうことが大切だと思いました。 11年T
東北感想文
今まで大阪ではゴミ拾いやハイチ大地震のための募金活動などのボランティア活動をさせて頂いたことはあるのですが、今回のような、実際に現地に行きボランティア活動をするのは初めてでした。正直、「日本の東北地方」、莫大な被害を齎し、たくさんの方々が亡くなられた地方に行くとなったとき、現地で何が起こるか分からないし、自分が行って大丈夫なのか、などと心配事がたくさんありました。複雑な気持ちを持ちながらも、岩手県へ行くバスの中では、みんなでワイワイ盛り上がっていました。2時間盛り上がった末、みんな疲れはてて目は半目。私もこれからの作業のために体を休めました。
長い道のりを経て、遠野まごころネットに着くと、また不安になりましたが、現地で出迎えて下さった桜井さんの笑顔や、他のボランティア活動をされている方々と挨拶をかわしていくうちに、気持ちにもゆとりが出てきたのを覚えています。体育館に入り、荷物の整理、現地に向かう準備をする。つなぎを着て帽子をかぶる。これら一つ一つの行動が大阪での生活からの切り替えの準備だと自分に言い聞かせました。
一日目は陸前高田市でボランティア活動をさせていただくことになりました。「陸前高田」という地名はよくニュースで聞くことが多く、ニュースでよく名前を耳にするということは被害が大きいということであって、そこに足を踏み入れると思うとまた再び緊張が走りました。友達と、「いよいよだね。」と言い、バスに乗り込みました。行きのバスの中では、CRASHという外国の方々が集まったボランティア団体の、横の席に座っていた方と英語でいろいろな話をしました。その方は私たちが遠野に到着する一週間ほど前から違う施設で生活をしているそうで、今回の東北地方のボランティア活動のために、ハワイやカリフォルニアに住んでいる仲間をつれて日本に来られたそうです。バスの中では私がCRASHの皆さんのために通訳をしたり、日本の話をしたりと、とても楽しい雰囲気でした。CRASHのメンバーの皆さんとも仲良くなることができ、一日目の活動はよいスタートをきることができました。
陸前高田に一歩踏み出すと、遠野で見た光景とは全く違い、初め自分の目を疑いました。テレビのニュースでは映像を見たことはあったにも関わらず、実際に自分の目で見たときの衝撃はとても大きいものでした。水田に入って瓦礫撤去をしていると、泥だらけになった子供の片方の靴やビデオテープ、服などが見つかりました。ひとつひとつには思い出が詰まっていたのだなと思い、心が痛みました。
二日目。この日は釜石市箱崎町での活動をさせていただきました。「釜石」という名前も、震災後よくニュースで聞く名前でした。朝のラジオ体操のあとに気合を入れなおして、バスに乗って出発しました。翌日の疲れがまだたまっていなのか、行きのバスの中でも爆睡でした。
バスに乗って1時間10分ほど経過したところで、窓の外を見てみると、状況は一変していました。パン屋さんはつぶれて看板が道路に落ちていて、家屋があったところには基礎部分しか残っておらず、悲惨な情景でした。釜石市ではいろいろな酷い出来事があったと聞き、より一層活動を頑張ろうと思えました。釜石市東小学校、中学校では在校生(その日学校をお休みしていた中学生1人、小学生2人はなくなってしまった。)は全員助かったと聞き、私の学校でももっと避難訓練を強化したほうがいいのではないかと考えました。この日は、個人様宅で、草むしり、瓦礫撤去、石などをどかす作業をさせて頂きました。おじいさんが葡萄を下さったりしました。
この日印象に残ったのは、家屋の壁にある、赤いスプレーで書かれた○と×。この二つの印の意味を聞き、胸が痛みました。この赤印はひとつか二つぐらいしかないと思ったら間違いで、釜石市の家屋のほとんどにこのマークが書かれていました。
朝の朝礼の時に班長さんがおっしゃっていた、{ボランティア活動は、「してあげる。」のではなく、「させて頂く。」}という心を忘れずに作業を黙々と続けました。
三日目。やはり釜石市の印象が強かったのか、この日も箱崎町での作業をさせて頂きました。この日は最終日ということもあり、吉田さんが班長をされている、「めっちゃドッロドロのベッチャベッチャになる作業」を選びました。この作業は個人宅の水路を作る作業で、身体的にとてもハードな仕事でした。しかし思いっきり力を振り絞り、大きな石も運び、右手に三つもまめができるほど、作業に没頭しました。この日も、作業をさせていただいたお家のおじいさんとおばあさんが飲み物やお餅を作って持ってきてくださいました。疲れも吹っ飛び、午後の作業も黙々と行いました。気持ちのいい汗をかくことができました。
このような充実した三日間を経て考えたことは、ボランティアの輪をもっともっと、広げるということです。SOISの生徒と教員合わせて35人が短い期間のなかで必死に作業をしても、できること、場所は限られてきます。遠野まごころネットの班長さんも、「今は連休中だからこんなにも活動をしてくださる人は多いですが、これが平日となると半分以下に減ります。だからもっとボランティアをしてくださる方々がほしいんです。」とおっしゃっていました。私もその通りだと思いました。丁寧に作業はしなくてはならないけど、やっぱりスピードも肝心。一人でも多くの被災者の方々が喜んでくだるには、人手が必要だと私は考えます。ただ東北に行って作業をするのではなく、次につなげる、周りの人に今の被災地の状況を伝えてボランティアの輪を広げる、までが「ボランティア活動」だと考えています。また機会があれば、今度はもっと長い期間向こうに滞在して活動をさせていただきたいなと思いました。 10年 S
感想
Tohoku
東北ボランティアに参加して
初日に行った陸前高田で不謹慎ではあるけれど、あれだけ騒がれていた東北地震も正直こんなもんかと思ってしまいました。確かに田んぼは跡形もなく、家ももとのコンクリートしか残っていない状態だったからそれが津波、地震の恐ろしさを物語っていたのはいうまでもありませんでしたが、新聞やテレビで見ていたあの瓦礫で埋もれた家や道など創造していたよりも遥かにましだと思ってしまいました。でも2・3日目にいった釜石でその考えは変わり、陸前高田は地震から6ヶ月間住民やボランティアの手によって日々復興に向かっていっているだけだとわかりました。釜石に行ってまだ瓦礫だらけの家やここにはたくさん家が建っていたであろう場所に何もないのを見て自分の前日に考えていたことがものすごく恥ずかしく感じました。実際にボランティアという作業をして思ったことはこんな地道な作業でいつ終わるかもわからないのに今までボランティアに参加してきた人たちはただ復興を祈ってひたすら働いていたことが実感できたのと作業中に本当にリアルに洗濯中であったのであろう洗濯物や食器、名前の書かれた道具など身にしみて少しきつかったです。自分がのんきに無人島の山でみんなで人間知恵の輪をやっている最中にここではいったいどんなことが起こっていたのかと考えると胸が痛くなりました。たった3日しかいなかったけど、よい意味で行ってよかったと思っています。テレビや新聞ではわからない、行って自分の目で見ないとわからないことが本当にたくさんあったからです。それから何年後かわからないけど、阪神淡路大震災で被災した場所が今あれだけ戻ったように東北が活気あふれる町に戻ったとき私はもう一度この土地にきて自分の目でどんな風に復興したのか見たいと思いました。 11年Y
感想
しかし今回学校側がこういう企画をしてくださり行ってみることにしました。
被災地はまだ地震があったまま時間がとまっていて元から空き地だったんじゃないの?ってほど津波によって家やビルなどが流され何もなくなっている地域もありました。そこの掃除やがれき運びをしていると土の中から食器や服、また写真や思い出ビデオなどが出てき、とても生活感あふれるリアルなものがたくさん出てきて改めてここに人が住んでいたんだと思い胸がいたくなりました。岩手でみたあの光景は言葉で表すのが難しいぐらい普段当たり前のように生活してる私たちには想像がつかないほどでした。辛い思いをたくさんされた現地の方々が私たちボランティアのために作業中に差し入れを持ってきてくださったりランチの時にご飯をつくってもってきてくださったりしてとても温かい気持ちになりました。作業はしんどい時もありましたがすごくやりがいがありそれを通して様々な経験ができテレビを通してだけじゃわからない現地に行ったからこそ学べるものもたくさんありました。本当にボランティアに行くことができてよかったと思います。同じ日本で何が起きているのか全く人事にはできません。少しでも多くの人にボランティアに行ってほしいと思います。 12年M
東北ボランティア
陸前高田に着いて1番初めに思ったことは、6カ月もたったのに、まだこの様な状態なのかということです。テレビでもyoutubeでも何度も被災地の様子を見ていたけど、どこか他人事のような気持ちがありました。しかし、実際にその地を訪れると、多くの家庭用品やお店の商品、女の子の制服のスカート等が出てきて、ここで暮らしていた人は助かったか、大切な写真や思い出の品が少しでも多く見つかったか、とても心配になったと同時に、"東北の人々"ではなく、個人単位で、被災者を考える様になりました。2時すぎで時間の止まったままの時計を見たときは、その瞬間を強く感じとることができました。私たちが活動したあの狭い範囲と、短い時間だけであんなにたくさんのがれきが出てきたことに驚きました。帰りのバスでは隣に座っていたベテランの方が色々なことを教えてくださいました。さらに途中の休憩でその方が、陸前高田の写真集を購入して見せてくださいました。その写真集には、地震以前の陸前高田と地震後の陸前高田を比較している写真や、津波発生時の30秒ごとの写真が載っていました。活動場所、バスで通った場所の以前の写真をみることは私にとってかなり衝撃的でした。シャワーを浴びている最中、今地震がきたらどうしようと突然心配になりました。また、就寝後のあまり大きくない地震が起きたときも、今度はもっと大きい地震が起きたらどうしようと不安になりました。その時、東日本大震災を体験した人は、毎日もっと多くの恐怖の中で生きているのだと気付きました。
2日目、大槌。
大槌では、水路で作業しました。作業現場に着いてすぐは、この水の中からはそんなにゴミやがれきは出てきそうにないなと思っていました。しかし作業を始めてすぐに、漁業の紐、家屋の一部であろう木材、発砲スチロール、とにかくさまざまなものが出てきたので驚きました。さらに水路を渡って上へいくと、もっと多くのものが出てきました。新聞や、お坊さんが首にかけているもの、つりざお、ドラム缶などがありました。私は、作業中、ただ作業するだけではなく、一つ一つ出てきたものをみて、なにに使われていたものなのか考えるようにしていました。それでもやはり跡形がなさすぎて、どんな地区だったのか想像しづらかったです。作業現場の近くにあった選挙家屋の様な建物は傾いていて、中もぐちゃぐちゃで衝撃的で、大槌の中で特に脳裏に焼き付いている様子です。
3日目、釜石。
私の中では、3か所の中で釜石が1番印象的でした。車中からみえる光景は、小学校の校舎3階に乗用車がささっていたり、ガードレールがまがっていたり、写真に撮らなくても一生忘れることのなさそうな光景を目にしました。今まで行政の支援があまり受けられず閉鎖的だったことを聞き、つらい気持ちになりました。時には、効率よりも、地域の方々の気持ちを優先したいというまごころネットの隊長さんのお話を聞き、個人宅の瓦礫撤去の際は、そのお家の方の気持ちを考えながら作業しようと思いました。閉鎖的だったと聞いたあとに、90代のおじいさんが二度も差し入れを下さったり、進水式のお餅まきに招待して下さったり、炊き出しをして下さったり、とてもうれしかったです。そのような交流を経験できたのも、今までのボランティアの方々やまごごろネットの方々が、熱心に作業をしてきたからだと思い、私たちも、たった1日の作業ではあるけれど、その関係を崩すことのないように真剣に取り組まなければならないと思いました。
全体
どれも夢中になったころに1日が終わってしまい、残念でした。特に地域の人との関わりがあった釜石は、きれいにしたい気持ちが強く、復興するまでずっといたいと思ってしまいました。全体ミーティングで言われた、ボランティアはしてあげるのではなく、させていただくという言葉は常に頭の中においておこうと思います。今度は、もう少し長期で行って、仮設住宅を廻ったり、カフェのお手伝いをしたりしてみたいとも思いました。高校生で被災地ボランティアに行くことを受け入れてくださる団体はとても少なく、家族の了承もなかなか得にくいので困っていました。そんな時に、学校から被災地へボランティアに行くことを企画してくださった先生方に本当に感謝しています。また、まごころネット、周りのボランティアの方々、さくらいさんは、私たち高校生の知らないことを丁寧に教えてくださり、感謝しています。お金を出してくれた両親、ボランティアの私たちを受け入れてくれた被災地の方にもお礼を言いたいです。お礼として私にできることを考えたとき、何年後か、東北が以前のように復興したら、また東北を訪れて、世界の人々に、自然がたくさんのたくましい東北を発信したいと思いました。 11年U
東北ボランティア 2011を終えて・・・
[1日目] 学校が終わって、玄関でごそごそし始めるボランティアメンバー。夜行バスで16時半から14時間かけて翌日朝の7時前に現地に到着。それからいろいろと説明を受け、私たちは全員で初日の活動現場である陸前高田へ。数十分して眠気から覚めたあとに目にしたのは、いかにも駐車場のようなところに潰された数十台の車でした。それからは次々と現実的なものを目の当たりにし、活動場所に到着。その日私は主に道路の清掃をしていました。清掃と言っても案外大変なもので。パートナーと一緒にコンクリートが見えるまで土砂を掃いたり削ったり。1時間やってやっと一部といういわゆる「地道」な作業をしていました。途中途中でほかのボランティアの人に「地道なことだけどね、まだここ(道路)は誰も作業していないから大事だよ。」と言っていただき、また他の人達もお互いに励まし合い、海外からの仲間も作りながらの作業でした。
[2日目] 1日目の疲れを取り、朝のラジオ体操に。この日は自由に活動場所を選べて、私は大槌に向かいました。この場所は、また陸前高田とは違い、ボランティア活動された後のごみの山が目立っていました。そして着き、ここでは水路の清掃をしました。途中で私と他3人は大槌でも別の場所に移動して、グループの班長さんたちが跡形もないが床だけ残っている建物を壊す作業をお手伝いしました。班長さんたちが床の釘を一つ一つ抜き、一列ずつ板を外していきます。そのうえで私たち4人は床に載っているものを除外したりしました。そして昼食を食べ、午後は田の草むしりをしました。もっと幅広くボランティアができるように、いろいろな人のアドバイスを聞きながら効率の良い活動方法が学べた1日でした。
[3日目] この日は疲れがピークに差し掛かっている中、自由選択で最初の2日間とは違う場所、釜石市に向かいました。ちょっとしたデコボコ道を通りすぎたバスは、とある学校に着きました。その学校の3階くらいまではがれきになってしまい、ほぼ屋上しかないところでした。そしてこの日は3日間のうち、私の中で一番印象強い班長、吉野さんのグループで活動しました。このグループはあるおじいちゃんの、後のない土地にお邪魔させていただいて、水路を深く広げる作業をしました。この日の釜石では進水式があり紅白餅をいただき、震災後初の出航を私たちも見送りました。また昼にはひっつみ(水団)大会もあり、満腹になりました。そしてこの日はほぼ1日中おばあちゃんと小学生くらいの男の子も私たちの作業を見守ってくれました。途中でお餅をくれたり、冷たい飲み物をいただいたり。とても優しい方々でした。そんななか私の心の中で涙した言葉をその男の子が口にしました。私は作業をしていたので見てはいませんでしたが、その子は同じ班のボランティアと話しているときでした。何か見つけて「これ、懐かしいな。」や「ここでよく遊んだんだ。」など。この言葉を聞いたとき、私は1日の作業前に釜石市の隊長が言っていた言葉を思い出しました。「あと数か月したらここもきれいに平地にするそうです。それを100も承知の上で、私たちボランティアは活動します。無駄だと思うかもしれませんが、そんなことはなく、被災地のみなさんは平地にする前にちょっとでも、ほんの少しでもきれいになった光景を見たいのです。これはただの肉体労働ではなく、被災地のみなさんへの心のケアだと思ってください。」もちろんこれは活動が始まるときから私の中に書き留めていたことでしたが、男の子のおかげで、よりいっそう気持ちが引き締まりました。この日は、私よりも小さな子が教えてくれた現実の重さ、そして地元の方々からの優しさが実感できる日となりました。
私は活動のみで言うと、このような体験をしました。これはボランティアであるが、決して簡単なんかではありません。ですが今、全国各地、また海外からもたくさんのボランティアが東北の復旧をいち早く願っている方々がいらっしゃいます。それは私たちにとってすごくありがたいことであり、是非それがかなうといいなと思います。まだボランティアに参加されたことのない方、また迷っている方などにも、これからのボランティア参加を検討していただきたいと思いますし、私自身もまた機会があれば、1日という短い時間だけでも参加したいと思います。そして、ボランティアに参加した私としての課題は、私の周りにことの重大さ、また今の状況などを伝えることだと思います。また私にできることは近畿にいてもやるようにし、一刻も東北地方また日本全体の復旧を祈ることが今のわたしにできることだと思います。
2011年10月9日日曜日
感想
被災地を訪れ、現場を直接目で見た時は言葉が出ませんでした。テレビや新聞で見たのと全く同じ光景でしたが、画面や写真を通して見るのと、実際に自分の目で見るのとでは全く違った光景に見え、大きな衝撃を受けました。現場を一言で言いあらわすとすれば、「青々茂る生き生きとした山と美しい海に囲まれた灰色の荒れ地」でした。山や海は何もなかったかのようでしたが、その中にあるのは、建物はなく田畑も荒れた平らな灰色の地でした。私はこの光景に最も衝撃を受けました。山と海に囲まれ大変のどかに思われましたが、家や学校の校舎などは流されてしまった地は寂しい様子でした。しかし私が訪れたところはそのような悲しい事実だけではありませんでした。がれきや木、草などを撤去し綺麗に平らにされた空地のようなところで草野球をする少年たち、進水式を行う現地の人々、私たちボランティアを理解し快く受け止めてくださる被災者の方々がたくさんのものを失ってしまった被災地を依然と守っているように見えました。私はこのような光景を見て、少し不謹慎なのかもしれませんが心が温かい気持ちになりました。復興しようとしている、そんな様子がうかがえました。私がした仕事は主にがれき拾いであり、直接東北を助けている気にはなれませんでしたが、被災者の方々が、私たちボランティアの活動を見て少しでも心が癒されていると思うと、しんどい活動も全く持って苦ではありませんでした。むしろ被災者の方々に喜んでもらえていると考えれば、もっと手伝いたい、役にたちたいと思いました。
このプログラムに参加できたことにとても感謝しています。言葉では表せない感情やそれほど受け止めがたい事実を実際に目の当りにし、私にとってとても良い経験となりました。帰ってきてから、学校や家で「どうだった?」という質問に、どこから話せばいいのかわからなくなるくらいたくさんのことを学び、たくさん考えさせられました。私はこのプログラムは参加することだけが大切だと思っていません。これからこの経験を周りの人たちに伝えることがもっと大切だと思います。そしてボランティアの隊長さんが言っていたように、話を聞いて一人でも多くの人がボランティアに参加することを願っています。そして何より東北の復興を願っています。 11年Y




