2011年9月30日金曜日

東北ボランティアに参加して

きっかけはとても簡単なものでした。KGキャンプのとき、平井先生が隣で東北ボランティアに夏休みに行ったという話を聞いて、純粋にその地を自分の目で確かめてみたいと思ったのでした。夏休み中、何度か被災地に行くことを試みました。しかしまだ高校生ということもあり、現地での受け入れが整っていないところが多く、そうこうしている内にいつの間にか夏休みが終わってしまっていたのです。いつか、そしてそれもなるべく近いうちに、被災地を訪れなければいけないという思いがあったにも関わらず、私は行動に移せないまま、『なんとなく』の希望とともに時が経って行きました。
 最初に今回の東北ボランティアについての話を聞いたのは井藤先生からのメールで、でした。センターの一員でもある私は、この活動にただの参加者としては参加できなかったのです。期待されていることに対する嬉しさと、それと同時に責任感やプレッシャー、また現地で一体自分に何ができるのかという不安に襲われました。
 母にこの現地入りのことを話したとき、母の答えは「NO」でした。私はもともとこの三連休に母との予定があり、母はそれをつぶしてでも行かなければいけない大事なことなのか、と私に問うたのです。私は二つの責任の間に板挟みになりました。一つは、母との元々の約束を果たすという責任。もう一つは、学校の代表、センターとして責任。私は悩んだ末、それでも行かなければならないというセンターとしての責任をとりました。

 この三日間私が現地で学んだことを文章で表すということは、本当に難しいことで、ブログにも書いたとおりどのような言葉で表せばいいかわからず四苦八苦しています。「楽しかった」という声を何人かの参加者から聞いた時、私は本当にそれでいいのかと考えました。それは決して不謹慎だとか、被災者の人たちに対しての思いやりがないなどと言うような善意の気持などではなく、自分が感じた恐怖からです。
 1日目の陸前高田市は、正直「こんなものか」と思いました。作業がすでにだいぶ進んでいたことや、建物の跡などがもうほとんど見られなかったことからだと思いますが、現実味があまりなかったのです。そこは昔からあのような草原であったかと思うぐらいのものでした。私は衝撃を受けたのは2日目の釜石市で、でした。
 バスの中から見る景色や、バスを降りてから実際に触れる空気に私は驚愕しました。「水」というものがこれほどの破壊力を持つものなのか、と改めて痛感しました。そこにあったのは崩壊寸前の家であったり、窓のない部屋や瓦礫が積み立てられている学校などでした。私が何より恐怖を感じたのは、2日目の釜石市にて、最後の写真撮影のときでした。私たちは屋上に上りそこから町を展望して写真を撮ることができました。屋上まで行く途中に私が見たのは、壁についてある泥の跡でした。泥は屋上の入り口付近についているもので、津波の高さを物語っていました。泥がある高さまで津波が上がってきた、という証拠なのです。その時、初めてこの津波というものを実際に自分の中で感じた気がしました。同時
に、自分が今立っているこの場所や、さっきまで作業をしていたあの場所、バスで通ってきたあの道も、たくさんの人の「命」が失われた場所であるということが私の頭の中を襲いました。何よりもその時感じたものは「恐怖」。今までそこに平然と立っていた自分が信じられませんでした。
 ボランティアの方々のたくさんのお話の中で、何よりも心に残ったのが「風化」という言葉。忘れないということとは一体どういう意味なのか考えさせられました。学校でセンターとして活動している私もこの「忘れない」ということについて何度か考えたことがありましたが、現場の人たちの言葉は何よりも身にしみるものでした。被災者の方々だけでなく、「助けたい」と思っている人たちも「忘れないでほしい」と願っている。だったら、私たちも「助けたい」と思う人たちの一人として「忘れない」でいたいし、「忘れない」ために何かをしたい。どんなに時間がかかっても、少しずつ少しずつ私たちが今ここにいる場所から「伝える」ということを続けたいと思います。そこで忘れてはいけないのは、きっと「ありのままに伝える」ということ。私が現地で感じた恐怖も、私が感じたままになるべくたくさんの人に伝えていきたいと思います。そして私たち自身が出来ること、大きくても小さくても、直接的でも間接的でも、少しずつの積み重ねが大切だということをたくさんのボランティアの方々から学びました。私は、センターの一員としてこの学校の中でできることを、焦らずに、より長く、私達になりにやっていきたいと思います。 11年 S

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